忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

【9冊目】それは太陽のせいだ/教養と理解力



 自分を成長させるには、ある程度自分に負荷の掛かる課題に挑むのがよい。

 簡単過ぎる課題も、難し過ぎる課題も効果が薄い。

 自身の120%の能力でようやくクリアできる程度のものが、成長を促すのである。

 読書力に関して言えば、上記の課題を「本」に置き換えると良いだろう。

 今回紹介するカミュ「異邦人」、これは間違いなく「難し過ぎる課題」であった。

 

 まず、語り口が難しい

 以前の私なら最初の数ページで挫折していたに違いない。

 しかし、この本を読むに至るまでに、芥川龍之介や太宰治、ヘミングウェイを経ていたため、なんとか読み進められた。

 多少、真意の不明確な文章があっても、最後まで読み進めれば、その意味がわかったり、わかならくとも物語全体を楽しむことができるということをそれらから学んでいたからである。

 そんなわけで、努力し読み切った。

 そして、大まかなストーリーは理解できた。

 だが、本書の核心部分が全く理解できていないのではないか。私はそんな不安を読後に抱えることになった。

 この本は、陪審員制度の欠陥を訴えるものではないし、「善意も見方を変えれば悪意」といった単純なテーマに落ち着くものでもない。

 そう思わずにいられない理由は、やはり、最後の場面で見せる主人公ムルソーの叫びやそれ以降の彼の思案によるところが大きい。

 本書のその辺り(第二部後半)から、内容が急に哲学的になり、難解になるのだ。

 おまけに、巻末に掲載されている「解説」までもが難解で、「解説の解説」が欲しくなるほどである。

 特にキーワードとなっている「実存主義」、まず、この言葉の意味がわからない

 ためしにWikipediaを参照してみるも、チンプンカンプンである。

 しかし、興味深いのは、Wikiの実存主義のページにヘミングウェイや芥川龍之介の名前が載っていたことである。どいうい関係性があるのかはイマイチわからないが・・・

 さらに同ページの「関係する著名人」にはショーペンハウアーやドストエフスキーが載せられている。

 実は、書評のため、ショーペンハウアーの「読書について」、ドストエフスキーの「罪と罰」を既に用意しており、いつでも読める状態となっている。

 「実存主義」の何たるかを知るためには、実存主義そのものを学ぶことも手ではあるが、その思想をもった人物の著書を読むことで理解を深めることができる可能性もある。

 勿論、実存主義がわからぬせいで物語の核心が掴めなかった「異邦人」ように、上記の2冊もピンと来ないまま終わる場合も考えられる。

 しかしながら、「理解できないかもしれないから、読まないでおこう」というのはかなりネガティブな行為だし、理解できなかったところで損をすることは何も無い。

 強いて言えば、読む時間と購入費くらいだ。

 だが、これも己の教養と理解力を測るためなら安いものである。

 今回読んだ「異邦人」にも同じことが言える。

 「実存主義」という今まで私の生活に一切関与しなかったキーワードを投げ込んでくれたのである。

 「異邦人」を読むことに対し、私の教養と理解力が十分でないことがわかった。これだけで、価値のある本であったと思う。

 というわけで、難しさの2つ目のポイントをまとまると、「テーマの哲学的難解さ」である。


 このように、しっかりと内容を把握できていない私が感想を述べる資格があるのか、甚だ疑問ではあるが、本書の「心に響いた一文」を紹介しよう。


 ”私は、早口にすこし言葉をもつれさせながら、そして、自分の滑稽さを承知しつつ、それは太陽のせいだ、といった。”(p.110)


 死刑宣告をされたムルソーが、犯行に及んだ動機を説明した場面である。

 ムルソーは嘘が言えない。そのために、「自分の滑稽さを承知しつつ、それは太陽のせいだ、といった」のである。

 この言葉は死刑を間逃れようとしたムルソーの「救いを求めた言葉」であり、同時に、周囲に人間に彼への理解を諦めさせる「死を決定づけた言葉」でもある。

 読み返す程に悲しみの募る場面、セリフのように思う。

 だが、真にこの言葉を理解すためにも、哲学(実存主義)に関する更なる勉学が必要だろう。

 まだまだ学ぶことは多い。

 いや、まだ学び始めたばかりだ、と言った方が適切かもしれない。

 いつか「異邦人」を読み直し、なるほどなぁ、と言ってみせよう。

異邦人 (新潮文庫)

カミュ 新潮社 1963-07-02
売り上げランキング : 5068
by ヨメレバ
PR

【8冊目】自分の仕事ぶりを『厳しく』チェック/繰り返される入力出力



 好きな小説家は森博嗣氏だが、実用書や新書では茂木健一郎氏を好んで読んでいる。

 今日は、そんな茂木健一郎氏『脳を活かす仕事術』を紹介しよう。
 
 本書で茂木氏はブログの有用性に触れている。

 脳科学の世界では、人間の記憶は「出力→整理→意味付け」という行程を経てようやく「経験」となるらしい。

 その「出力→整理→意味付け」という作業に最適なツールの一つがブログというわけだ。

 そして、さらに、ブログにはもう一つのメリットがあるという。


"ブログを書くもう一つの理由は、出力することで経験の意味を捉え直し、自分の人生を再構成することにあります。"(p.64,65)


 この「再構成」とは、「自分の行動のハードルを高めに設定し直す」といったような意味だ。

 例えば、書評のために本を選ぶとき、「サルでもわかる!ぶつりがく」「大人のための物理学」の2冊があるとしたら、後者を選ぶだろう。

 なぜなら、見栄を張りたいからである。

 少し難しそうなものを選択し、紹介することで自分を少し大きく(賢く)見せることができるのだ。

 一見、この行動に対し「見栄っ張り」というネガティブな印象を受けるが、実はそうではない。

 普段なら手を出さない難しそうな本に背伸びをして手を伸ばす、つまり、より負荷の掛かる行動を選択するようになるのだから、成長が促進されるというポジティブな行動なのである。

 「見栄っ張り」とはある意味で「ストイック」と言えるだろう。


 また、本書の「はじめに」にこんな事が書いてあった。

 
"どんな文章が美しいのかはわかっているつもりでした。しかし、いざ自分で書こうとすると、まったく納得のいかないものしか書けないのです。その事実に呆然としていたことさえありました。"(p.5)

 この悩みは私が現在抱えているものに近い。

 このブログの目的の一つ「文章力の向上」はこの悩みの解決のためにある。

 では、茂木氏はこの悩みをどのように解消したのだろうか。

 答えは「無理矢理書いてみる」ことだそうだ。

 納得いかなくても、ひたすら書き続けるのである。

 この解決法には脳科学的な根拠があるらしい。

 まず、脳は運動系学習(アウトプット)感覚系学習(インプット)の2つの学習法を備えている。

「書く」という行為は運動系学習によって強化される。

 そして、

”運動系学習は反復でしか鍛えることができません。”(p.22)

と茂木氏は言う。

 つまり、「文章力の向上」には運動系学習が必要で、アウトプットの積み重ねがポイントとなるのだ。

 そう考えると、私の現在の目標である「目指せ!100冊書評!」も適切なものだと言える。


 もう一つ、面白いことが書かれていた。

”脳の出力を高めるためには、脳に「入力」された感動した言葉、役立ちそうな情報を、友人などに実際に話して「出力」することが大切です。その結果、その言葉や情報が自分の血となり、肉となって整理されるのです。”(p.30)

 この「誰かに話すことで自分の考えをまとめる」という行為を「talk though(throughの間違い?)」と言うらしい。

 一度、talk throughを行えば、次回同じ会話をするときに、よりまとまった形で話をすることができるそうだ。

 これを言い換えれば、「会話のコミュニケーションが会話力を付ける」と言える。

 これを前回の記事「文章はコミュニケーション」という考えと合わせれば、「文章のコミュニケーションが文章力を付ける」となる。

 文章化することで自分の考えをまとめるのだ。

 talk throughとの違いは、文章の場合、もう一度同じ内容のものを書く機会があまりない、という点にある。

 しかし、具体的には同じ内容で無くても、抽象化すれば似た内容、同じ内容になることもある。

 そういった場合に、一度文章化し考えが整理されていると、よりまとまったものが書けるのではないだろうか。


 「文章力の向上」のためには、以上のように「繰り返し文章を書く」ということが大切である。

 当然じゃないか、と思われた方もいるだろう。

 だが、脳化学的裏付けを理解しているのとないのとでは大違いである。



 最後になったが、本書の心に残った一文を紹介しよう。

 
”必ず自分の仕事ぶりを『厳しく』チェックしなければ、このサイクルは完成しません。”(p.38,39)

 インプットしたままより、アウトプットも行った方がよい。さらにアウトプットしたままよりも、アウトプットしたものを再度インプットした方がよいのである。

 そして、再度のインプットのときは、厳しいチェックが肝心なのだ。

 再度のインプットが習慣化されれば、繰り返されるインプットとアウトプットのサイクルがぐるぐる廻り始める。

 まさに「好循環」と言える。 

 今、私はあまり2回目のインプットができていない。つまり、うまく循環されていない。

 今後の課題はこの辺りにありそうだ。

 どういった形で再インプットを行うか、よくよく考えてみようと思う。


 自分の脳みそに良い循環を与えてやりたい皆さん、是非、ご一読を。

脳を活かす仕事術

茂木 健一郎 PHP研究所 2008-09-10
売り上げランキング : 6515
by ヨメレバ

【7冊目】論文とはコミュニケーションの一形態/上手い文章を書くには



 プロフィールのところで公言しているように、私は「理系」に属するに人間である。

 そのため、論文を読んだり、それに近しいものを書いたりすることがある。

 そして、多くの場合、「読んだ論文」「書いた論文(のようなもの)」とのギャップにショックを受け、苦悩する。

 というのも、論じているテーマの難易に関わらず、私の文章は幼く、わかり辛いのだ。

 どうすれば、うまく書けるのか。

 この疑問を解決するため、私は本に頼ることにした。

 そこで出会ったのが、今回紹介する河野哲也『レポート・論文の書き方入門』である。

 この本のメインターゲットは大学生、特に文系の学生である。

 また、タイトルからもわかるように、論文だけでなくレポートに関しても言及している。

 本書の最たる特徴は、論文の書き方を説明する文章自体が論文の形式で書かれているところである。

 本書自体が具体例となっているため、説明の内容がどういったことを示しているのかが分かりやすい。


 実は、私がこのブログを始めるキッカケとなった本のひとつでもある。

 最初の記事にある

”そんなとき偶然ある数冊の本に出会い、「書評、テキスト批評」が読書によいということを知った。”

「テキスト批評」は、本書を通して知ったことの一つである。

 現時点では、まだまだテキスト批評を行うことは難しいが(主に能力的、時間的な都合で)、将来的には「テキスト批評」と胸を張って言える文章を書けるようになりたいと思う。

 さて、それでは、本書の心に響いた一文を紹介しよう。


”論文とはコミュニケーションの一形態で、・・・公共性を持った文章表現です。”(p.32)

 良い論文は分かりやすい。つまり、筆者とのコミュニケーションが上手くとれるのだ。

 逆に、悪い論文は、筆者とのコミュニケーションがとれない文章で作られていると言える。

 ここで間違えてはいけないのは、「会話のコミュニケーション」「文章のコミュニケーション」は別ものだと言うことである。

 分かりやすい会話をそのまま文章にしても分かり辛いことがあるし、その逆もある。

 そのため、会話が上手くなったところで、良い論文(文章)が書けるようになるとは限らない。良い論文(文章)を書くためには、当然、書き方を学ばなくてはならないのだ。

 また、筆者は「公共性」についても述べている。

 「公共性を持った文章」とは、不特定多数の人が目にする文章ということだ。

 では、公共性を持った文章には何が必要なのか。

 本書では「引用をあることを明示すること」と述べている。「誹謗中傷を行わない」といったモラルやマナーに関することも公共性と深く関わる。当然過ぎるため、本書では取り上げられていないが。

 
 文章を書くことは難しいことだ。それも「上手い文章」となるとハッタリは通用しない。

 会話の上達には「話す」ほかに、「聞く」ことも重要な要素なる。

 文章の上達も同様に、「書く」だけでなく、「読む」ことも重要であると感じる。

 コミュニケーションは相手との双方向性が大切である。

 文章は相手が見えにくいが、しっかりとコミュニケーションがとれるように、日々「読み」「書き」に磨きを掛けたい。


レポート・論文の書き方入門

河野 哲也 慶應義塾大学出版会 2002-12-13
売り上げランキング : 1891
by ヨメレバ

オススメブログパーツ『ヨメレバ』/紹介と注意点。


 当ブログでは「アフィリエイト」を行っているのだか、今回はそれに関するお役立ちツールを紹介しようと思う。

 私がオススメしたいのは、「ヨメレバ」というブログパーツである。

 以下は、そのブログパーツ生成のためのページである。

 書籍紹介ブログパーツ ヨメレバ

 開発者は「わかったブログ」のかん吉さん。
 
 使い方は簡単で、各アフィリエイトサイトへの登録ユーザーデータ入力をするだけ。すでにアフィリエイトサイトに登録している方は後者だけで利用可能だ。

 注意したい点は「ブックオフオンラインとの連携」に関してである。

 ブログパーツ生成ページの「各アフィリエイトidの調べ方」にブックオフオンラインとの連携に関して記載されている。

 しかし、最近、ブックオフオンラインがアフィリエイト事業から撤退したため、実際はブログパーツでリンクを掲載することが不可能となっている。

 あくまで「アフィリエイト」のためのツールなので、ブックオフオンラインへのリンクの除外は妥当であると思う。

 私のお気に入りのブログパーツ、ヨメレバ。どんどん活用していきたい。

 本に関係するブログを管理している方は、是非、試してみては如何だろうか。


 話は本の購入者側に移るが、書評ブログ読者の中には「安ければ古本でも構わない」という方も多いと思われる。

 そんな方には、やはり、「ブックオフオンライン」はオススメである。

 ブログパーツにリンクが無かったとしても、是非、欲しい本を「ブックオフオンライン」で検索してみるのがよいと思う。

 「ヤフーオークション」もよいかもしれない。

【6冊目】ただ、一さいは過ぎて行きます/転落か、解放か


 サン=テグジュペリの「星の王子さま」を書評したとき、

”でもそんなの人間じゃない。キノコだ!”

の言葉から、つまならない大人が如何に人間で無いか、を書いた。

 今回、紹介する物語もそんな「人で無くなった人」がテーマになっている。

 皆さんご存知、太宰治『人間失格』だ。

 以下に青空文庫へのリンクを記載する。

 太宰治 人間失格 - 青空文庫

 今更、この作品についてあらすじの説明をする必要を感じないため、早速、私が『人間失格』を読んで、心に響いた言葉について考えたい。

 ”ただ、一さいは過ぎて行きます。 自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。 ただ、一さいは過ぎて行きます。”(p.149)
 これが今回、心に響いた言葉である。

 ただ一切は過ぎて行く。この言葉が目に入った瞬間、主人公「大庭葉蔵」の人生の様々な場面が走馬灯のように駆け巡った。それは転落、そのものだ。

 学校では人気者であった少年時代、堀木とともに豪遊に耽る青年時代。葉蔵は人間を疑い恐れながらも、上手くお道化ることができた。

 その後、様々な女性との出会いを切っ掛けとし、葉蔵の人生は無惨なもの屁と変貌して行く。

 最終的に、葉蔵はモルヒネ中毒となり、「脳病院」や「村はずれの茅屋」という人間社会とは隔絶された空間で過ごすこととなる。

 ”ただ、一さいは過ぎて行きます。”
 この言葉は「盛者必衰」を表すように思える。

 しかし、人間失格となり、社会から隔絶された後の葉蔵にどこか「落ち着き」のようなものを感じる。

 父親の死後、

”苦悩する能力をさえ失いました。”

と葉蔵は語る。

 さらに

”いまは自分には、幸福も不幸もありません。”

と言う。

 人間として最期を迎えたその後の静けさなのかもしれない。

 私はこれがある意味で、解決や解放された状況になっているのではないか、と考える。
 
 そう考えるなら、

 ”ただ、一さいは過ぎて行きます。”

、この言葉は「時間が解決してくれる」という意味にも思えてくる。

 だが、「人間の世界のたったひとつの真理」としてどちらもピンと来ない。

 「人間の世界」と言っているのだから、もしかすると、葉蔵を除く人々を対象とした真理なのか。

 とにかく、『人間失格』、まだまだ読み込む価値はありそうだ。

 読んでいない方は是非、御一読を。


人間失格 (新潮文庫 (た-2-5))

太宰 治 新潮社 2006-01
売り上げランキング : 76329
by ヨメレバ