忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

【10冊目】今のくらしがそうつらいわけじゃないよ/虜になる幸福、魅了される不幸




 特に意識して集めていた訳ではないのに、気が付けばその作家の作品の多くを揃えてしまっている・・・

 というような、自身でも気付かぬうちに虜になってしまった作家が私には何人か存在する。

 そのうちの一人が宮部みゆきだ。

 実を言うと、宮部氏の作品の中で、一番最初に何を読んだかどうも思い出せない。つまりは、いつから魅了されていたのかがわからない

 このように「意識してない」「記憶が残っていない」というと本当に魅了されているのか、と疑問に思う方も居られるだろう。

 しかし、魅了のされ方には色々あると私は考える。

 鮮明な思い出となって記憶に残り、いつまでも忘れられない。

 一般的な「魅了される」というのは、このような状態だろう。

 もう一方で、それほど気に留めていなかったが、よくよく考えると生活の一部、自分の一部になっていた。

 これも明らかに魅了のされていると言える。

 そして、私にとっての宮部氏は後者であったのだ。

 確かによくよく考えると、頻繁にではないが、しかし、定期的に私は宮部氏の作品を読んでいる。大袈裟ではなく、生活の一部と言えるのでは、と思う。

 今回紹介するのは、そんな宮部氏「心とろかすような」である。

 代表作「パーフェクトブルー」の続編だ。

 本書は表題作「心とろかすような」を初めとした5つの短編からなっている。

 このシリーズの特徴は何と言っても物語の語り手が犬だということだ。

 人間達(登場人物達)には伝わらないコミュニケーションを動物達は交わし、ストーリーが展開する。


 今回、心に響いた一文は5つのうちの書き下ろし「マサ、留守番する」にある。


 とある探偵事務所で飼われている主人公の犬・マサは、一人(一匹)で留守を任させる。

 その留守中に事件が発生し、それを知ったマサは深夜、家を抜け出し聞き込みを開始する。

 もちろん、聞き込みの相手は犬、猫といった動物である。

 その聞き込み相手の一匹に「ハラショウ」という名の雑種犬が登場する。

 実は、このハラショウは飼い主より虐待を受けており、以前よりマサはそのことに気付いていた。

 そして、その残酷な環境から逃がしてやろうと過去に何度か救出を試みたのだが、残念ながら失敗に終わっている。

 聞き込みの去り際、マサは「まともな暮らしができるようにしてやる。今の状況は不公平だからな」とハラショウに誓う。

 だが、ハラショウは

”「そうかい?だけどオレ、今のくらしがそうつらいわけじゃないよ。おっちゃんシンパイしないでよ」”(p.239)

と言うのである。

 このセリフに私は心を締め付けられた。

 本人は不幸を感じていないのだ。

 そして、本人が不幸を感じない分、こちらが不幸を感じてしまった。

 似たようなことは、人間同士でもよくある。

 例えば、恋に盲目となった者とそれをサイフと見なす者。

 例えば、努力に対する対価があまりにもアンバランスな仕事をする者。

 他者から見れば、どうしても搾取されているようにしか見えなくても、多くの場合、本人達はこう思っているのである。

 「今のくらしがそうつらいわけじゃない」

 不幸ではない、むしろ幸福である、という場合さえある。

 確かに、「不幸でない」という場合も含め、幸福の形は様々だと私は思う。

 しかし、このようなネガティブな幸福に対して私は疑問を抱かざるを得ない。

 これは正しい幸福なのか。

 健康な幸福なのか。

 いつの日か、目が覚めると同時に消えてしまう幸福ではないか。

 そして、残るのはゼロではなくマイナスではないだろうか。

 「私は大丈夫、十分に自分状況を俯瞰して捉えられる」と自信を持っている人も居るだろう。

 だかしかし、誰しもが、自身の幸福の、その歪で不安定な状態に気付けない可能性を持っている。

 なぜなら、人間は魅了されるからだ。

 魅了された相手が悪いと「自身でも気付かぬうちに虜になって」、せっせと搾取されに精を出すことになるのだ。

 魅了とは、素晴らしくもあり、恐ろしい。

 
 ハラショウの場合、同じ家で暮らしているメスのプードル(こちらはハラショウとは対照的に大切にされている)がいるのだが、彼女に一方的な憧れを持っていた。

 恐らく、ハラショウは彼女に魅了されており、その存在のために「今のくらし」に不幸を感じなかったのだろう。


 そして、物語は衝撃的な結末を迎える。

 気になった方は、是非、ご自身でその結末を確認して欲しい。


 私自身、現在、どちらかというと幸福を感じることが多い。

 しかし、その幸福も誰か他者の目から見れば、歪で不安定なのかもしれない。

 そのことに私自身気付く時は、虜になっていることに気付くときか、目が覚め不幸になったときなのかもしれない。


心とろかすような―マサの事件簿 (創元推理文庫)

宮部 みゆき 東京創元社 2001-04
売り上げランキング : 179503
by ヨメレバ
PR

【6冊目】ただ、一さいは過ぎて行きます/転落か、解放か


 サン=テグジュペリの「星の王子さま」を書評したとき、

”でもそんなの人間じゃない。キノコだ!”

の言葉から、つまならない大人が如何に人間で無いか、を書いた。

 今回、紹介する物語もそんな「人で無くなった人」がテーマになっている。

 皆さんご存知、太宰治『人間失格』だ。

 以下に青空文庫へのリンクを記載する。

 太宰治 人間失格 - 青空文庫

 今更、この作品についてあらすじの説明をする必要を感じないため、早速、私が『人間失格』を読んで、心に響いた言葉について考えたい。

 ”ただ、一さいは過ぎて行きます。 自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。 ただ、一さいは過ぎて行きます。”(p.149)
 これが今回、心に響いた言葉である。

 ただ一切は過ぎて行く。この言葉が目に入った瞬間、主人公「大庭葉蔵」の人生の様々な場面が走馬灯のように駆け巡った。それは転落、そのものだ。

 学校では人気者であった少年時代、堀木とともに豪遊に耽る青年時代。葉蔵は人間を疑い恐れながらも、上手くお道化ることができた。

 その後、様々な女性との出会いを切っ掛けとし、葉蔵の人生は無惨なもの屁と変貌して行く。

 最終的に、葉蔵はモルヒネ中毒となり、「脳病院」や「村はずれの茅屋」という人間社会とは隔絶された空間で過ごすこととなる。

 ”ただ、一さいは過ぎて行きます。”
 この言葉は「盛者必衰」を表すように思える。

 しかし、人間失格となり、社会から隔絶された後の葉蔵にどこか「落ち着き」のようなものを感じる。

 父親の死後、

”苦悩する能力をさえ失いました。”

と葉蔵は語る。

 さらに

”いまは自分には、幸福も不幸もありません。”

と言う。

 人間として最期を迎えたその後の静けさなのかもしれない。

 私はこれがある意味で、解決や解放された状況になっているのではないか、と考える。
 
 そう考えるなら、

 ”ただ、一さいは過ぎて行きます。”

、この言葉は「時間が解決してくれる」という意味にも思えてくる。

 だが、「人間の世界のたったひとつの真理」としてどちらもピンと来ない。

 「人間の世界」と言っているのだから、もしかすると、葉蔵を除く人々を対象とした真理なのか。

 とにかく、『人間失格』、まだまだ読み込む価値はありそうだ。

 読んでいない方は是非、御一読を。


人間失格 (新潮文庫 (た-2-5))

太宰 治 新潮社 2006-01
売り上げランキング : 76329
by ヨメレバ

【5冊目】天下の読者に寄す/哀れなのは誰か



 プロフィール欄やブログの紹介にちょこっと載せている目標がある。

 「目指せ!書評100冊!」

である。

 今回は5冊目の紹介ということで、目標の1/20が達成されたことになる。

 現時点で書評することに対し感じているのは「凝り過ぎていないか」ということである。

 「凝る」こと、それ自体には問題はない。しかし、過ぎたるは何とやらで、やり過ぎはよくないのである。

 では、そのやり過ぎの基準とは何か。

 それは、「読書の時間」と「書評の時間」のバランスより決定される。つまり、どちらか一方に使う時間が極端に偏ることが「やり過ぎ」な状態なのである。

 それでは、やり過ぎのどこが悪いのか。

 まず、読書のし過ぎで、書評の時間が無くなるとしよう。その場合、このブログが更新されなくなる。そうすると「目指せ!書評100冊!」や「文章力の向上」と言った目標も達成から遠くなる。これは問題である。

 一方、書評ばかりに時間を割き、読書の時間が無くなる場合はどうだろうか。こちらの場合は考えようによっては問題にならない。なぜなら、本を読まずして書評は不可能だからだ。この問題が永久に解決されないことはない。

 しかし、この問題はそんな理屈で片付けられない。

 というのも、当ブログ3つの目的のうち最も重視されるべき「読書力の向上」には「読書量の向上」という意味も含んでいるためだ。書評のために読書量を減らすのは、本末転倒に近い。

 「目指せ!書評100冊!」や「文章力の向上」、「読書力の向上」といった目標を偏り無くこなすためには、読書・書評も、同様に、偏り無くこなす必要かあるのである。

 というわけで、書評の文量をやや落とし気味で書いていこうと思う。


 では、書評に移ろう。

 紹介するのは、芥川龍之介「蜘蛛の糸・杜子春」である。今回はその中の「猿蟹合戦」をピックアップしたい。ネタバレを含むので、先に物語を読みたい方は、以下の「青空文庫」のURLにアクセス頂ければと思う。

 芥川龍之介 猿蟹合戦 - 青空文庫

 この作品は、皆さんご存知のおとぎ話、猿蟹合戦の「その後」を描いたものである。

 おとぎ話の最後で猿を殺した蟹とその仲間達。その後、

 ”彼等は仇を取った後、警官の捕縛するところとなり、悉監獄に投ぜられた”

のである。

 死刑宣告を下された蟹に対し、世間は冷たい。新聞、識者、大学教授、その他大勢が蟹叩きをするのである。

 そして、蟹に死刑が執行される。

 私はこのとき、世間の蟹に対する態度に恐ろしさを感じ、また「蟹は哀れだな」などと考えていた。

 そして、物語の最後の一文を読んでハッとさせられた。

”天下の読者に寄す。君たちも大抵蟹なんですよ。”(p.109)

 私も蟹だったのだ。

 世間に嫌われては、生きることすら許されない存在なのだ。

 「世間」とは何か。

 新聞、識者、大学教授などの「声の大きい者達」がつくる社会のことである。

 なんだか、悲しい気分になった。


 他にも名作がたくさん詰まった1冊、皆さんも是非。


蜘蛛の糸・杜子春 (新潮文庫)

芥川 龍之介 新潮社 1968-11-19
売り上げランキング : 82393
by ヨメレバ

自分がしっかりしとかなんだら、潰されてしまうよ。

「読んでみたい」と今まで何度も思っていたけれども、なかなか実際に読むまでには至らない。

 そういう微妙な位置にある作品が私の中にはたくさんある。今回紹介する「少年H」もそのうちの1冊と言えるだろう。

 読んでみたかった一番の理由は、私自身の生まれ育った土地が舞台になっているからである。実は、作者の妹尾河童さんは私の遠い先輩にあたる人物で、作中に登場する「ユーカリ」などには思わずニヤリとしてしまう。当時と今では雰囲気が大きく変わっているだろうが、地名なども、出る度に「あの辺かぁ」と鮮明なイメージが浮かべてしまう。そんな感じに私にとっては特別な作品なのである。

 とは言いつつも、今まで読まずにいてしまった。正確に言うと、「全部」を読まずにいてしまった。学生時代、教科書に一部分が掲載されてあって、それを読み、「ふーん」といった程度の感想しか湧かず、あまり興味をそそられなかったのだ。そして、書店などで「少年H」の文字を見る度に、若干気になるけれども・・・という「読みたいけど、でもなぁ」といった具合の微妙なポジションの本になってしまったのである。

 では、なぜ、今になって読むに至ったのか。

 それはもちろん、映画化がきっかけである。「映画化!」の帯が付けられ平積みされた少年Hが目に入った。今までにない猛烈なプッシュを感じ、この期を逃したら、もう読まないかもしれない。そんな気がして、長年の保留状態を解除し、読んでみたのだ。ちなみに映画はまだ見ていない・・・

 読み始めると、あら不思議!

 学生だった頃とは違い、読むのが止められない程面白く感じるではないか。これは教科書の抜粋箇所の良し悪し云々の問題ではないように思う。私の内面の変化が、作品に対する捉え方の変化を生んだ。そんな気がしてならない。

 そして、その中で最も私の心に響いた言葉がこれである。
”自分がしっかりしとかなんだら、潰されてしまうよ。この戦争が終わったとき、恥ずかしい人間になっとったらあかん。いろいろ我慢せなならんやろうけど、我慢する理由を知ってたら我慢できるからな。(p.312)”

 日本がハワイを攻撃し第二次世界大戦が開戦した、という知らせを聞いた主人公Hとその家族。クリスチャンである彼らは、自分たちにとって厳しい時代が来ることを覚悟した。そんなときのHの父親の言葉である。

 近頃、「恥ずかしい人間」をよく目にすることがある。例えば、電車の中だったり、マクドナルドの隣の席だったり、twitterだったり。その多くは自分が恥ずかしい人間であるという自覚が無いように見受けられる。そんな無自覚な姿を見ては、「自分もひょっとすると無自覚なだけで、端から見れば恥ずかしい人間なのではないか」と不安を感じたりする。本当のところはどうなんだろうか。

 恥ずかしい人間にならないための必要条件は、Hの父親曰く「我慢できること」である。そして、我慢のためには「理由」が必要である。

 では、何のために恥ずかしい人間にならないようにするのか。

 それは、今まで築き上げた自分というものの存在価値を損なわないようにするためではないか。つまり、それが「自分をしっかりと持つこと」「自分を潰さず保つこと」になるのだ。己の価値を下げるのは、他でもなく己なのである。


 少々真面目に書き過ぎたかもしれないが、少年Hという作品は、このように考えさせられる場面もあれば、思わずクスッとしてしまったり、ウルッとしてしまう場面もある。

 皆さんも、読んでみては如何だろうか。

著者:妹尾河童
出版社:新潮文庫