忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

【14冊目】バガボンド37/知恵の在り処



 更新が滞って約一年。

 なんて前回の更新で言っておきながら、今度は約10ヶ月の放置をかましてしまった。

 「知的な本をうまくまとめないと!」と変な意識を持ち、その高いハードルを乗り越えようと苦労しているうちに腰が重くなってしまっていたようだ。大ジャンプしないと乗り越えられないハードルを最初から並べていたのでは、そりゃ続かない。飛び越えても、飛び越えても目の前に大きな障害だもの。

 「まずは100冊」という目標を掲げてスタートしたこのブログ。それならば、まずはスムーズに100回乗り越えられるハードルを用意すべきだった。その100回の経験を生かし、次の100回で少しハードルを高くすればいいのだ。そんな単純な話だったのに、わかるのに随分時間がかかってしまった。そんなわけで、ハードルを低くしてもう一度スタートしてみようと思う。

 低いハードルとして新たに「漫画」というジャンルを加えてみた。「低いハードル」というと怒られるかもしれないが、短時間で読めて、理解もしやすいので、ペース配分しやすいと思う。

 ということで、最初の漫画は井上雄彦バガボンド37だ。

 自称井上雄彦ファンな私は、彼の絵の展覧会などが地元で行われると必ず訪れることにしている。記憶に新しいのはガウディとの企画だが、そこで感じられた井上氏の哲学はバガボンドにも大きく反映されていると思う。

 歴史と言えるくらい大きなタイムスケールで考えた時、個人は米粒ほどの存在で、ひとりの人間が直接世界を変えることはほとんど不可能である。しかしながら、その人が世界に与えたわずかな影響が、巡り巡って100年後、1000年後には世界をひっくり返すようなものになっているかもしれない。そして、それは同時に100年前、1000年前の誰かの影響によって「今」が存在していることも説明している。大雑把にしか表現できないが、こういった膨大な時間から見た生命の営み、命のサイクルを私はバガボンドやガウディ展で感じた。

 バガボンド37はその哲学が最も強く表現されているのではないかと思う。自然が作り出す生と死のサイクル、それに寄り添い生きる集落の人々。彼らの一員となって、ともに自然というものを学ぶ武蔵。逆に武蔵から強さを学ぶ人々。

 次からは小倉編になるのか、モーニングは飛び飛びに読んでいるので、イマイチ次がどんな話かわからないが、楽しみである。

 うーん、もっとラフに書きたい。

 それでは。

PR

【13冊目】思考の整理学/創造力というエンジン

更新が滞って約一年。原因は不明だが、もう一度書評をしてみようという気持ちになった。

そんなわけで、本日より更新を再開。

とはいえ、あまり力まないようにしたい。昨年の反省すべき点はここである。どうも一つ一つに掛ける労力が大きすぎたようだ。少し忙しくなると更新できないようでは、長期の継続は難しい。今回はあっさりした内容で長く続けたい。

口火を切ってくれるのは、外山滋比古の「思考の整理学」。出会いのきっかけは中学受験の問題集。ほんの一部分のみが掲載されていたのだが、全貌が気になるには十分であった。早速、後日購入。

本の内容に話を移そう。

目次には、統一感の無いタイトルが並んでいる。短いエッセイを集めた本なのか。そう思って読んでみると、そうでない。脈絡のないタイトルの集合だが、本書を読み進めるとジワジワと繋がってくる。次のタイトルはどう繋がるのか、期待しながら読むのは楽しい。

出版された時代がコンピュータが普及し始めた頃のため、ハウツー的な話になるとレトロな空気は漂い始める。澤田昭夫の「論文の書き方」や加藤周一「読書術」にも感じた空気だ。どのハウツーも現代にはミスマッチな方法だが、どういう訳か、憧れてしまう。読んでいて、特殊な心地よさを感じる。

一方、本書のメインテーマとなる思考の整理に関する考察は、現代においても色褪せていない。学生の受けるテストは、ほとんどが記憶力を競うものである。しかし、コンピュータが現れた。これには人間は勝てない。したがって、今後は創造力こそが人間の力になる。つまり、創造力というエンジンを備えた人間こそが、コンピュータに取って換えられることなく、役立つ人間になれるのだ。大雑把に言えば、そんなことが書かれていた。

私が個人的に面白いと思ったポイントは、比喩や類推にある。外山滋比古のモノの結びつけ方は実に明快で、楽しい。こんな上手い比喩が言えたらな、と思わずにはいられない。

というわけで、書評はこのあたりで終えておこう。月2回ペースの更新を続けられたらと思う。


【12冊目】『読書について』/本当に自分で考えられているか


 ある日、平均的な読書量ってどの程度なのだろうか、と疑問に思いGoogleで検索してみた。

 正確な統計データは得られなかったものの、読書家の皆さんの様々な意見を見ているうちに、面白くなって検索が止まらなくなった。

 読書量に限らず、広く一般的に「読書」についてどんな考えがあるのか探ろう、と色々なサイトをゆらゆらと巡った。

 そうこうしているうちに出会ってしまったのが、今回紹介するショウペンハウエル『読書について』である。

 私が購入したのは、岩波文庫版だ。

 これには他二篇(『思索』と『著作と文体』)も収録されているが、いずれも「読書」または「本」についての著者の考えが述べられている。

 その内容は、如何に人々が「読み」「書き」に対して無頓着であるかを痛烈に非難し、本来はどうあるべきかを鋭く指摘するというものである。

 「読み方」、「書き方」は当ブログのメインテーマであり、本書についても真剣に考察をしたいところである。

 しかし、読み方はまだしも、書き方については考察するにはハードルが高いように感じる。

 というのも、本書では、「書く人=文筆家、学者など」とされており、非常にレベルの高いことが記されているのだ。

 また、『著作と文体』では書き方について、多くの具体例が示されているが、どれもドイツ語のため、日本語の場合いったいどうなるのか、という考察も必要となる。

 そんなわけで、書き方に関しては、私の考察する時間と能力が十分になってから行いたいと思う。

 よって、今回は読み方を中心に考察していくこととする。

 まず、著者は

”読書とは他人にものを考えてもらうことである。”(p.127)

”1日を多読に費す勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。”(p.128)

と考えている。

 これは今回の心に響いた一文でもある。

 本を読んで理解する。

 この行為で得られるのは、他人の思考をなぞるということだけである。

 では、どうすべきなのか。

”熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。”(p.128)
 理解したものを反芻し、自身の一部としてはじめて読書が価値あるものとなるのである。

 すなわち、熟慮を重ねる暇も作らず、多読に耽るのは無意味なのである。

 いや、寧ろ、有害と言える。

 なぜなら、

”悪書は、読者の金と時間と注意力を奪い取るのである”(p.132)

 著者曰く、「良書の数は、一世紀の間にヨーロッパで1ダース現れるか、現れないか」らしい。

 とすれば、多読は必然的に悪書を読むことになる

 したがって、多読は害なのだ。

 ここまでで読み方については何となくわかってきた。

 次なる問題は「良書とは何か」であろう。

 本書にはこのような一文がある。

”比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品だけを熟読すべきである。彼らの作品の特徴を、とやかく論ずる必要はない。良書とだけ言えば、だれにでも通ずる作品である。”(p.134)
 確かに言いたいことは十分にわかる。

 良書に対して詳細な定義付けをすることは、余計な混乱を招くことになるだろう。

 天才の作品とだけしておくのが最適なのかもしれない。

 また、引用の引用になるが、

”幸い私は早く青年時代に、A・W・シュレーゲルの美しい警句に行きあたり、以来それを導きの星としている。『努めて古人を読むべし。真に古人の名に値する古人を読むべし。今人の古人を語る言葉、さらに意味なし。』”(p.135)

 書物の世界にも淘汰が存在する。

 長い時間を掛けて、悪書は消え、良書だけが生き残るのだ。

 よって、古くからある書物を選べば、良書にあたる可能性が高いと言える。

 今回紹介したショウペンハウエルのこの本もそんな一冊だろう。

 読み方について、ざっとまとめると以下のようになる。

・読書は、良書を繰り返し読む
・良書とは天才的古人の作品である

 この他にも、読書をせず、思索する時間も重要であると著者は述べる。



 まだまだ読み切れていない部分が多々あるが、ひとまず現段階での考察は以上としよう。

読書について 他二篇 (岩波文庫)

ショウペンハウエル 岩波書店 1983-07
売り上げランキング : 7746
by ヨメレバ

【11冊目】『情報は1冊のノートにまとめなさい』/出会わないテクニック



 今回紹介するのは、奥野宣之『情報は1冊のノートにまとめなさい』である。

 実は、同著者の『読書は1冊のノートにまとまなさい』を続編と知らず先に読んでしまったので、その内容の補完のため本書を読んだ、というのが読むに至った経緯である。

 何故、わざわざシリーズを遡ってまで読んだのか。

 それは単純に『読書は〜』に使えるテクニックがいくつも紹介されていたからである。

 そのシリーズである『情報は〜』にもよいテクニックが紹介されているのではないか、と思ったわけである。

 私にとってはそれくらい良書だったのだ。

 中でも、最も画期的だったのは「探書リスト作成」である。

 これは『情報は〜』、『読書は〜』の両方で紹介されている。当然ながら、後者は改良版となっており、テクニックに若干の差異がある。

 「探書リスト作成」とは、「無駄な読書を減らす術」である。

 皆さんにはこういった経験がないだろうか。


 たまたま近くを通りかかったので書店へ立ち寄ってみた。もちろん、買う予定の本など無い。

 とりあえず、雑誌の新刊が出ていないかチェックしてみよう、と店の中を少し巡る。

 すると視界に飛び込んでくる様々な宣伝やポップ

 気が付けば、本を手に取り、帯や『はじめに』、目次等に目を通してしまっている。

 そのまま、「良い本見つけたな〜」と思いレジへ・・・

 
 本の衝動買いである。

 勿論、これで良書と出会う可能性もあるが、実際のところ、それは非常に稀なケースである。

 「探書リスト作成」はそのような、読む必要のない本との出会いを減らしてくれるのだ。

 このテクニックを知るまで、私は無駄な本をたくさん読んできたように思う。

 では、なぜ、良書でも無いものを衝動買いしてしまうのか。そして、それを繰り返してしまうのか。

 それは、売り方の巧妙さにある。

 書籍業界の人間は、その本が良書であろうと無かろうと、食っていくために本を売る必要がある。

 そのような業界で、売り方の巧妙さが増すのは自然である。

 この問題は、後日当ブログで紹介するショウペンハウエル『読書について』でも取り上げられている。

 ちなみにショウペンハウエルの『読書について』は150年程前に書かれたものである。そのような時代からこの問題はあったのだ。

 このような一種のマインドコントロールのような戦術に対応するのが、「探書リスト作成」なのである。

 宣伝ポップが生み出す衝動性を極力減らし、明確な目的を持って本を購入するのである。

 テクニックの詳細については、是非、本を手にとって読んでもらいたい。

 私は探書リストのおかげで本選びにおいて後悔が少なくなった

 余談だが、著者の探書リスト作成法では、専ら紙を使っているが、私は面倒なのでEverNoteを使用している。


 さて、『情報は1冊のノートにまとまなさい』を読んで、心に響いた一文を紹介しよう。

”忙しいときほど暇なときにやるべきことを思いつき、遊んでいるときほど仕事につながるアイデアを考えつく”(p.122)

 確かにそうである。

 いったい何故だろうか。

 「忙しいときほど暇なときにやるべきことを思いつ」くのは、恐らく、喉が渇けば、飲みたいものが頭に浮かぶのと同じことだろう。

 忙しいから暇が欲しくなる。暇が欲しいと、その暇がどんなものか想像(妄想)したくなる。

 「遊んでいるときほど仕事につながるアイデアを考えつく」のは、かなり一般的に知られていることだ。

 アイデアを捻り出すため、机にへばりついていたが思いつかず、気分転換に散歩に出掛けると、あっさり解決した。

 よく聞く話である。

 つまり、創造にはある程度のリラックスが必要なのだ。

 ここでポイントは思いついたことはメモした方がよい、ということである。

 パッと浮かんだアイデアほどパッと消えるからだ。

 これは記憶に留めたり、思い出すための脈略がないためだろう。

”忙しいときほど暇なときにやるべきことを思いつき、遊んでいるときほど仕事につながるアイデアを考えつく”

 このように普段から軽く身構えて置けば、仕事も遊びもアイデア豊富な充実した生活が送れるかもしれない。


情報は1冊のノートにまとめなさい 100円でつくる万能「情報整理ノート」 (Nanaブックス)

奥野 宣之 ナナ・コーポレート・コミュニケーション 2008-03-12
売り上げランキング : 10464
by ヨメレバ

【10冊目】今のくらしがそうつらいわけじゃないよ/虜になる幸福、魅了される不幸




 特に意識して集めていた訳ではないのに、気が付けばその作家の作品の多くを揃えてしまっている・・・

 というような、自身でも気付かぬうちに虜になってしまった作家が私には何人か存在する。

 そのうちの一人が宮部みゆきだ。

 実を言うと、宮部氏の作品の中で、一番最初に何を読んだかどうも思い出せない。つまりは、いつから魅了されていたのかがわからない

 このように「意識してない」「記憶が残っていない」というと本当に魅了されているのか、と疑問に思う方も居られるだろう。

 しかし、魅了のされ方には色々あると私は考える。

 鮮明な思い出となって記憶に残り、いつまでも忘れられない。

 一般的な「魅了される」というのは、このような状態だろう。

 もう一方で、それほど気に留めていなかったが、よくよく考えると生活の一部、自分の一部になっていた。

 これも明らかに魅了のされていると言える。

 そして、私にとっての宮部氏は後者であったのだ。

 確かによくよく考えると、頻繁にではないが、しかし、定期的に私は宮部氏の作品を読んでいる。大袈裟ではなく、生活の一部と言えるのでは、と思う。

 今回紹介するのは、そんな宮部氏「心とろかすような」である。

 代表作「パーフェクトブルー」の続編だ。

 本書は表題作「心とろかすような」を初めとした5つの短編からなっている。

 このシリーズの特徴は何と言っても物語の語り手が犬だということだ。

 人間達(登場人物達)には伝わらないコミュニケーションを動物達は交わし、ストーリーが展開する。


 今回、心に響いた一文は5つのうちの書き下ろし「マサ、留守番する」にある。


 とある探偵事務所で飼われている主人公の犬・マサは、一人(一匹)で留守を任させる。

 その留守中に事件が発生し、それを知ったマサは深夜、家を抜け出し聞き込みを開始する。

 もちろん、聞き込みの相手は犬、猫といった動物である。

 その聞き込み相手の一匹に「ハラショウ」という名の雑種犬が登場する。

 実は、このハラショウは飼い主より虐待を受けており、以前よりマサはそのことに気付いていた。

 そして、その残酷な環境から逃がしてやろうと過去に何度か救出を試みたのだが、残念ながら失敗に終わっている。

 聞き込みの去り際、マサは「まともな暮らしができるようにしてやる。今の状況は不公平だからな」とハラショウに誓う。

 だが、ハラショウは

”「そうかい?だけどオレ、今のくらしがそうつらいわけじゃないよ。おっちゃんシンパイしないでよ」”(p.239)

と言うのである。

 このセリフに私は心を締め付けられた。

 本人は不幸を感じていないのだ。

 そして、本人が不幸を感じない分、こちらが不幸を感じてしまった。

 似たようなことは、人間同士でもよくある。

 例えば、恋に盲目となった者とそれをサイフと見なす者。

 例えば、努力に対する対価があまりにもアンバランスな仕事をする者。

 他者から見れば、どうしても搾取されているようにしか見えなくても、多くの場合、本人達はこう思っているのである。

 「今のくらしがそうつらいわけじゃない」

 不幸ではない、むしろ幸福である、という場合さえある。

 確かに、「不幸でない」という場合も含め、幸福の形は様々だと私は思う。

 しかし、このようなネガティブな幸福に対して私は疑問を抱かざるを得ない。

 これは正しい幸福なのか。

 健康な幸福なのか。

 いつの日か、目が覚めると同時に消えてしまう幸福ではないか。

 そして、残るのはゼロではなくマイナスではないだろうか。

 「私は大丈夫、十分に自分状況を俯瞰して捉えられる」と自信を持っている人も居るだろう。

 だかしかし、誰しもが、自身の幸福の、その歪で不安定な状態に気付けない可能性を持っている。

 なぜなら、人間は魅了されるからだ。

 魅了された相手が悪いと「自身でも気付かぬうちに虜になって」、せっせと搾取されに精を出すことになるのだ。

 魅了とは、素晴らしくもあり、恐ろしい。

 
 ハラショウの場合、同じ家で暮らしているメスのプードル(こちらはハラショウとは対照的に大切にされている)がいるのだが、彼女に一方的な憧れを持っていた。

 恐らく、ハラショウは彼女に魅了されており、その存在のために「今のくらし」に不幸を感じなかったのだろう。


 そして、物語は衝撃的な結末を迎える。

 気になった方は、是非、ご自身でその結末を確認して欲しい。


 私自身、現在、どちらかというと幸福を感じることが多い。

 しかし、その幸福も誰か他者の目から見れば、歪で不安定なのかもしれない。

 そのことに私自身気付く時は、虜になっていることに気付くときか、目が覚め不幸になったときなのかもしれない。


心とろかすような―マサの事件簿 (創元推理文庫)

宮部 みゆき 東京創元社 2001-04
売り上げランキング : 179503
by ヨメレバ