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【5冊目】天下の読者に寄す/哀れなのは誰か



 プロフィール欄やブログの紹介にちょこっと載せている目標がある。

 「目指せ!書評100冊!」

である。

 今回は5冊目の紹介ということで、目標の1/20が達成されたことになる。

 現時点で書評することに対し感じているのは「凝り過ぎていないか」ということである。

 「凝る」こと、それ自体には問題はない。しかし、過ぎたるは何とやらで、やり過ぎはよくないのである。

 では、そのやり過ぎの基準とは何か。

 それは、「読書の時間」と「書評の時間」のバランスより決定される。つまり、どちらか一方に使う時間が極端に偏ることが「やり過ぎ」な状態なのである。

 それでは、やり過ぎのどこが悪いのか。

 まず、読書のし過ぎで、書評の時間が無くなるとしよう。その場合、このブログが更新されなくなる。そうすると「目指せ!書評100冊!」や「文章力の向上」と言った目標も達成から遠くなる。これは問題である。

 一方、書評ばかりに時間を割き、読書の時間が無くなる場合はどうだろうか。こちらの場合は考えようによっては問題にならない。なぜなら、本を読まずして書評は不可能だからだ。この問題が永久に解決されないことはない。

 しかし、この問題はそんな理屈で片付けられない。

 というのも、当ブログ3つの目的のうち最も重視されるべき「読書力の向上」には「読書量の向上」という意味も含んでいるためだ。書評のために読書量を減らすのは、本末転倒に近い。

 「目指せ!書評100冊!」や「文章力の向上」、「読書力の向上」といった目標を偏り無くこなすためには、読書・書評も、同様に、偏り無くこなす必要かあるのである。

 というわけで、書評の文量をやや落とし気味で書いていこうと思う。


 では、書評に移ろう。

 紹介するのは、芥川龍之介「蜘蛛の糸・杜子春」である。今回はその中の「猿蟹合戦」をピックアップしたい。ネタバレを含むので、先に物語を読みたい方は、以下の「青空文庫」のURLにアクセス頂ければと思う。

 芥川龍之介 猿蟹合戦 - 青空文庫

 この作品は、皆さんご存知のおとぎ話、猿蟹合戦の「その後」を描いたものである。

 おとぎ話の最後で猿を殺した蟹とその仲間達。その後、

 ”彼等は仇を取った後、警官の捕縛するところとなり、悉監獄に投ぜられた”

のである。

 死刑宣告を下された蟹に対し、世間は冷たい。新聞、識者、大学教授、その他大勢が蟹叩きをするのである。

 そして、蟹に死刑が執行される。

 私はこのとき、世間の蟹に対する態度に恐ろしさを感じ、また「蟹は哀れだな」などと考えていた。

 そして、物語の最後の一文を読んでハッとさせられた。

”天下の読者に寄す。君たちも大抵蟹なんですよ。”(p.109)

 私も蟹だったのだ。

 世間に嫌われては、生きることすら許されない存在なのだ。

 「世間」とは何か。

 新聞、識者、大学教授などの「声の大きい者達」がつくる社会のことである。

 なんだか、悲しい気分になった。


 他にも名作がたくさん詰まった1冊、皆さんも是非。


蜘蛛の糸・杜子春 (新潮文庫)

芥川 龍之介 新潮社 1968-11-19
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【4冊目】でもそんなの人間じゃない。キノコだ!



 近頃は、大人になりたくない子供が増えているらしい。ここで言う大人とはきっと「つまらない大人」「忙しい大人」「頭の固い大人」、つまり、どうしても憧れられない、そんな大人のことだろう。そんなものその大人自身、なりたくなかっただろうし、ひょっとすると、本人はそんな大人になってしまっていることに気が付いてすらいないかもしれない。

 恐ろしい話だが、「つまらない大人」には、なりたく無くてもなってしまうのだ。

 今回紹介するサン=テグジュペリ「星の王子さま」には、そんな大人たちが何人も登場する。

 作者は最初に、

 
”この本を、こうしてひとりのおとなにささげたことを、子どものみなさんは許してほしい。”(p.6)

としている。この物語が作者の親友レオン・ヴェルトに捧げたものであることを、子供達に断っているの一文なのだが、ここから「星の王子さま」が子供を対象とした作品であることも伺える。

 では、サン=テグジュペリはこの物語を通して子供たちに何を伝えたかったのだろうか。

 それは「子供のときの感性を大切にしなさい」ということであるように思う。言い換えれば、「つまらない大人にはなるなよ」ということだ。

 しかし、子供に対して「子供のとき」というものが如何程に大切かを説明するのは至難の業である。多くの場合、大人になり手遅れになってしまってから、ようやくその大切さに気づくのだ。人間は数年、数十年前を振り返り評価できても、昨日に対して同じことができない。

 この「子供のときの感性を大切にしなさい」というメッセージを子供達にわかりやすく伝えるため、作者は様々な登場人物を用意している。メインとなるのは、子供の感性を持つ「王子さま」、子供と大人の狭間にいる「僕」、そして、つまらない「おとな」達である。その他、どれも魅力的なキャラクタばかりである。

 物語の前半で、王子さまは色々な星を旅し、大人達に出会う。大人達は非常に滑稽に描写されている。大人がどれほどつまらない生き物であるか、子供達にも十分伝わるだろう。

 そして、そんなつまらない大人と同じようなことを言う「僕」に対し、王子さまが言った

”でもそんなの人間じゃない。キノコだ!”(p.38)

これが、今回、私の心に響いた言葉である。

 子供の頃の感性、つまり、自由な感性を失った大人はもはや「人間じゃない」のである。極端に言えば、権力や名声、数字に縛られた大人、ルーチンワークに身を任せ考えることをやめた大人には「人間性」は無いのだ。

 では、そんな人間性を失った大人は何者なのか。

 そう、キノコなのだ。

 ここで「なぜキノコなのか?」「キノコが象徴するものは?」と考えてみたくなる。が、しかし、それこそが不自由な大人の感性の表れかもしれない。キノコであることに深い意味を求めてはいけない。王子さまは、つまらない大人をキノコだと思った、ただそれだけなのだ。「人間じゃない=キノコ」、この間に途中式は存在しない。大人にはわかりにくいが、子供にはわかりやすい。

 このセリフのあと、「僕」は王子さまの大切さ、尊さに気付き、ぎゅっと抱きしめる。「王子さま=子供の頃の感性」とも考えられる。しかし、残念ながら、これは大人の考え方である。そして、大人になりかけている「僕」も同じ考えを持っていたかもしれない。子供の感性を大切にしたく思い、それを抱きしめたのだろう。

 王子さまと「僕」の行動や言動を「子供の感性」と「大人の考え方」とで対比して読むのも面白いかもしれない。まぁ、つまらない大人のする行為にあたるのだろうが。

 物語の最後で王子さまは消え、「僕」は大人になってしまう。そして、読者(恐らくここでは大人も含んでいる)に対し「僕」は王子さまを見つけたら知らせてくれ、とお願いする。これも作者からの重要なメッセージのうちのひとつである。



 自分は今、つまらない大人になっていないか。自由な感性を失っていないか。人間性を持っているのか。読後にはそんな疑問が浮かび上がる。

 下手な啓発書よりも、考えさせられる力をもった物語であるように思う。

 子供の頃に読んだことがある方にも、是非、もう一度読んでもらいたい。そして、考えてほしい。つまらない大人になっていないだろうか。

【3冊目】頭よ、頼むから最後までしっかりがんばってくれ

前回の記事では、「書評のための本の選び方」と称し、現在の私の本の選択の仕方を紹介した。

 しかし、実は、紹介というよりも、自分自身の本の選び方について一度整理しておきたかった、という理由ためだったのが本当のところである。頭の中でぼんやり「こうだろうな」と考えを巡らせるのと、それを文章にするのとでは、たとえ自分の頭の中の思考であっても、その理解度には雲泥の差が生じると思うのだ。

 同様に、本を読み終わったあとの、頭の中にある様々な思いを「書評」という形で文章化することも、重要な行為だと言える。文章化することで本の理解度、自分が持った感想に対する理解度が増すはずである。


 では、本の紹介に移ろう。

 今回紹介する本はヘミングウェイ「老人と海」である。

 文学的教養が無いに等しい私が、突然このような本を選んだのは不自然である。つまり、前回紹介した「本の紹介パンフレット」から文学作品と思われるものから無作為に選んだ一冊というわけだ。

 そんな「私が読んで面白さがわかるのか」と不安を抱きながら読み進めた本書において、心に響いてきた言葉が以下であった。


”手よ、どんどん綱を引いてくれ。脚よ、しゃんとしろ。頭よ、頼むから最後までしっかりがんばってくれ、いいか。(p.83)”


 主人公の老漁夫サンチャゴが、巨大カジキマグロとの死闘を繰り広げ、そして、最後の一撃を放とうする。そんな場面でのセリフである。

 老人と海は「ハードボイルド小説」に類する作品である。そのハードボイルドを凝縮したようなこのセリフに、この老人の勇ましさを感じずにはいられなかった。

 作中で何度も怪我をする老人であるが、その度に「ちゃんとしてくれ」と、自分の体から怪我をした部分を切り離し、あたかも別個の生命のように語りかけるのである。それは、痛みを意識から取り除くためであり、また、孤独に耐えるためなのであろう。そして、最終的に「ぼうっとしてきた」頭すら切り離し、「頼むから最後までしっかりがんばってくれ」と話しかけるのである。

 サンチャゴは巨大カジキマグロとの死闘中や死闘後、港へ帰る途中に様々な漁具を失う。しかし、彼はそのことに対してほとんど後悔も不安も感じていないのだ。どんな窮地に立たされても「いや、手はあるぞ」と戦うための策を練るのである。

 自身から身体や頭を切り離すことで、それらを道具と見なす。そして、その道具を失うことに臆すること無く、強大な敵へ立ち向かう。つまり、身を捨ててでも敵に勝とうというのだ。凄まじい緊張感と迫力を読んでいて感じた。

 老人と海、ストーリー自体は至ってシンプルだが、そこがまたハードボイルドさを際立たせているのかもしれない。私でも十分に楽しめる名作であった。

 実生活でここまでストイックになれる場面は少ないかもしれない。でも、巨大カジキマグロのような強大な敵、大きな困難に立ち向かわなくてはならないこともあるだろう。そんなとき、主人公サンチャゴの勇姿が、ハードボイルドに淡々と壁を乗り越えるための力をくれるかもしれない。

書評のための本の選び方

突然だが、私の場合、書評を前提として本を選ぶとき、その選び方には2つのパターンがあるように思う。

 一つは、話題になっていない本を選ぶパターン。これは純粋に自分が読みたい本であったり、書評を通じてより多くの人に読んでもらいたいから、という理由で選ぶことが多い。自分の好きな作家、好きなジャンル、ビビッときたタイトル。そういったものが基準となっている。

 だが、このような本の選び方にはある問題が存在する。

 その問題とは、自分以外の書評の数が少ない、ということである。

 これがなぜ問題なのかの説明のために、もう一度、当ブログの目的を確認したい。当ブログの目的は以下の3つである。

 「読書力の向上」
 「文章力の向上」
 「アフィリエイト」

 この「読書力の向上」が今回のポイントとなる。読書力とは、本を読むことを通して自身をより良くするための力や、その効率の良さ、といったものである。つまり、読むスピードや、量、そして、読みの深さが大きく関わってくる。

 ここで読むスピードや量は絶対的な値として捉えられ、力を養うための目標が立てやすかったり、今の力がどの程度なのかを確認が容易である。例えば、読む量を増やしたい場合、先月10冊の本を読んだのなら、今月は少なくとも11冊は読んでおきたい(簡単のためここでは内容の難解さやページ数を無視する)、といった具合である。

 ところが、読みの深さ。これを絶対的に測ることは難しい。

 そこで有効になる一つの手段が「自分の書評と他者の書評との比較」である。比較によって、「この本には、こんな解釈もあったのか」「あそこのあの台詞には、そんな意味も隠されていたのか」と自分にはできなかった読み方を知ることができる。つまり、書評の比較によって、自分になかったものを取り込むことができるのだ。言うまでもなく、より多量、より多様な書評が存在すれば、取り込める量も増加する。

 したがって、「読書力の向上」を目的とするのであれば、書評の数が少ない本は不適だと言える。これが「話題になっていない本を選ぶ」ときに起こる問題である。

 この問題を解決するための本選びが二つ目のパターンだ。これには書店によくおいてある「本の紹介パンフレット」等を使う。「夏の100冊」とかそんなタイトルのついた冊子である。

 多量多様に書評された本となれば、圧倒的に「文学作品」とされる本が有利である。例えば、芥川龍之介さんや太宰治さんの作品だ。こういう作品を選べば、質の良い書評に出会う割合も高くなるのでは、と思ったりもする。

 しかし、私は文学とはほど遠い人間で、それに関する知識はほとんど小中学生の状態が保存されているに等しい。そんな状態で、膨大な数の作品から書評するものを選んでいくというのは、なかなか無謀のように思う。

 そこで活躍してくれるのが、先ほど紹介した「パンフレット」である。

 パンフレットで紹介されている本は100冊前後。更にその中から「文学作品」とされるものは一握りである。これなら私のような人間でも迷わずに選べる。本を愛してやまない人にとっては、このような選び方はネガティブなように思われるかもしれない。しかし、こうすることで、確実に良いとされる作品に出会うことができるのだ。


 以上のように現在私は、「楽しむための本」「成長のための本」の2種類を、それぞれの方法で選び、読んでいる。

 おかげで、片足は楽しい世界に踏み込みつつ、もう一方は未知の世界を踏みしめている。非常に刺激的な状況である。

自分がしっかりしとかなんだら、潰されてしまうよ。

「読んでみたい」と今まで何度も思っていたけれども、なかなか実際に読むまでには至らない。

 そういう微妙な位置にある作品が私の中にはたくさんある。今回紹介する「少年H」もそのうちの1冊と言えるだろう。

 読んでみたかった一番の理由は、私自身の生まれ育った土地が舞台になっているからである。実は、作者の妹尾河童さんは私の遠い先輩にあたる人物で、作中に登場する「ユーカリ」などには思わずニヤリとしてしまう。当時と今では雰囲気が大きく変わっているだろうが、地名なども、出る度に「あの辺かぁ」と鮮明なイメージが浮かべてしまう。そんな感じに私にとっては特別な作品なのである。

 とは言いつつも、今まで読まずにいてしまった。正確に言うと、「全部」を読まずにいてしまった。学生時代、教科書に一部分が掲載されてあって、それを読み、「ふーん」といった程度の感想しか湧かず、あまり興味をそそられなかったのだ。そして、書店などで「少年H」の文字を見る度に、若干気になるけれども・・・という「読みたいけど、でもなぁ」といった具合の微妙なポジションの本になってしまったのである。

 では、なぜ、今になって読むに至ったのか。

 それはもちろん、映画化がきっかけである。「映画化!」の帯が付けられ平積みされた少年Hが目に入った。今までにない猛烈なプッシュを感じ、この期を逃したら、もう読まないかもしれない。そんな気がして、長年の保留状態を解除し、読んでみたのだ。ちなみに映画はまだ見ていない・・・

 読み始めると、あら不思議!

 学生だった頃とは違い、読むのが止められない程面白く感じるではないか。これは教科書の抜粋箇所の良し悪し云々の問題ではないように思う。私の内面の変化が、作品に対する捉え方の変化を生んだ。そんな気がしてならない。

 そして、その中で最も私の心に響いた言葉がこれである。
”自分がしっかりしとかなんだら、潰されてしまうよ。この戦争が終わったとき、恥ずかしい人間になっとったらあかん。いろいろ我慢せなならんやろうけど、我慢する理由を知ってたら我慢できるからな。(p.312)”

 日本がハワイを攻撃し第二次世界大戦が開戦した、という知らせを聞いた主人公Hとその家族。クリスチャンである彼らは、自分たちにとって厳しい時代が来ることを覚悟した。そんなときのHの父親の言葉である。

 近頃、「恥ずかしい人間」をよく目にすることがある。例えば、電車の中だったり、マクドナルドの隣の席だったり、twitterだったり。その多くは自分が恥ずかしい人間であるという自覚が無いように見受けられる。そんな無自覚な姿を見ては、「自分もひょっとすると無自覚なだけで、端から見れば恥ずかしい人間なのではないか」と不安を感じたりする。本当のところはどうなんだろうか。

 恥ずかしい人間にならないための必要条件は、Hの父親曰く「我慢できること」である。そして、我慢のためには「理由」が必要である。

 では、何のために恥ずかしい人間にならないようにするのか。

 それは、今まで築き上げた自分というものの存在価値を損なわないようにするためではないか。つまり、それが「自分をしっかりと持つこと」「自分を潰さず保つこと」になるのだ。己の価値を下げるのは、他でもなく己なのである。


 少々真面目に書き過ぎたかもしれないが、少年Hという作品は、このように考えさせられる場面もあれば、思わずクスッとしてしまったり、ウルッとしてしまう場面もある。

 皆さんも、読んでみては如何だろうか。

著者:妹尾河童
出版社:新潮文庫