自分がしっかりしとかなんだら、潰されてしまうよ。 「読んでみたい」と今まで何度も思っていたけれども、なかなか実際に読むまでには至らない。 そういう微妙な位置にある作品が私の中にはたくさんある。今回紹介する「少年H」もそのうちの1冊と言えるだろう。 読んでみたかった一番の理由は、私自身の生まれ育った土地が舞台になっているからである。実は、作者の妹尾河童さんは私の遠い先輩にあたる人物で、作中に登場する「ユーカリ」などには思わずニヤリとしてしまう。当時と今では雰囲気が大きく変わっているだろうが、地名なども、出る度に「あの辺かぁ」と鮮明なイメージが浮かべてしまう。そんな感じに私にとっては特別な作品なのである。 とは言いつつも、今まで読まずにいてしまった。正確に言うと、「全部」を読まずにいてしまった。学生時代、教科書に一部分が掲載されてあって、それを読み、「ふーん」といった程度の感想しか湧かず、あまり興味をそそられなかったのだ。そして、書店などで「少年H」の文字を見る度に、若干気になるけれども・・・という「読みたいけど、でもなぁ」といった具合の微妙なポジションの本になってしまったのである。 では、なぜ、今になって読むに至ったのか。 それはもちろん、映画化がきっかけである。「映画化!」の帯が付けられ平積みされた少年Hが目に入った。今までにない猛烈なプッシュを感じ、この期を逃したら、もう読まないかもしれない。そんな気がして、長年の保留状態を解除し、読んでみたのだ。ちなみに映画はまだ見ていない・・・ 読み始めると、あら不思議! 学生だった頃とは違い、読むのが止められない程面白く感じるではないか。これは教科書の抜粋箇所の良し悪し云々の問題ではないように思う。私の内面の変化が、作品に対する捉え方の変化を生んだ。そんな気がしてならない。 そして、その中で最も私の心に響いた言葉がこれである。 ”自分がしっかりしとかなんだら、潰されてしまうよ。この戦争が終わったとき、恥ずかしい人間になっとったらあかん。いろいろ我慢せなならんやろうけど、我慢する理由を知ってたら我慢できるからな。(p.312)” 日本がハワイを攻撃し第二次世界大戦が開戦した、という知らせを聞いた主人公Hとその家族。クリスチャンである彼らは、自分たちにとって厳しい時代が来ることを覚悟した。そんなときのHの父親の言葉である。 近頃、「恥ずかしい人間」をよく目にすることがある。例えば、電車の中だったり、マクドナルドの隣の席だったり、twitterだったり。その多くは自分が恥ずかしい人間であるという自覚が無いように見受けられる。そんな無自覚な姿を見ては、「自分もひょっとすると無自覚なだけで、端から見れば恥ずかしい人間なのではないか」と不安を感じたりする。本当のところはどうなんだろうか。 恥ずかしい人間にならないための必要条件は、Hの父親曰く「我慢できること」である。そして、我慢のためには「理由」が必要である。 では、何のために恥ずかしい人間にならないようにするのか。 それは、今まで築き上げた自分というものの存在価値を損なわないようにするためではないか。つまり、それが「自分をしっかりと持つこと」「自分を潰さず保つこと」になるのだ。己の価値を下げるのは、他でもなく己なのである。 少々真面目に書き過ぎたかもしれないが、少年Hという作品は、このように考えさせられる場面もあれば、思わずクスッとしてしまったり、ウルッとしてしまう場面もある。 皆さんも、読んでみては如何だろうか。 著者:妹尾河童 出版社:新潮文庫 PR