忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

【12冊目】『読書について』/本当に自分で考えられているか


 ある日、平均的な読書量ってどの程度なのだろうか、と疑問に思いGoogleで検索してみた。

 正確な統計データは得られなかったものの、読書家の皆さんの様々な意見を見ているうちに、面白くなって検索が止まらなくなった。

 読書量に限らず、広く一般的に「読書」についてどんな考えがあるのか探ろう、と色々なサイトをゆらゆらと巡った。

 そうこうしているうちに出会ってしまったのが、今回紹介するショウペンハウエル『読書について』である。

 私が購入したのは、岩波文庫版だ。

 これには他二篇(『思索』と『著作と文体』)も収録されているが、いずれも「読書」または「本」についての著者の考えが述べられている。

 その内容は、如何に人々が「読み」「書き」に対して無頓着であるかを痛烈に非難し、本来はどうあるべきかを鋭く指摘するというものである。

 「読み方」、「書き方」は当ブログのメインテーマであり、本書についても真剣に考察をしたいところである。

 しかし、読み方はまだしも、書き方については考察するにはハードルが高いように感じる。

 というのも、本書では、「書く人=文筆家、学者など」とされており、非常にレベルの高いことが記されているのだ。

 また、『著作と文体』では書き方について、多くの具体例が示されているが、どれもドイツ語のため、日本語の場合いったいどうなるのか、という考察も必要となる。

 そんなわけで、書き方に関しては、私の考察する時間と能力が十分になってから行いたいと思う。

 よって、今回は読み方を中心に考察していくこととする。

 まず、著者は

”読書とは他人にものを考えてもらうことである。”(p.127)

”1日を多読に費す勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。”(p.128)

と考えている。

 これは今回の心に響いた一文でもある。

 本を読んで理解する。

 この行為で得られるのは、他人の思考をなぞるということだけである。

 では、どうすべきなのか。

”熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。”(p.128)
 理解したものを反芻し、自身の一部としてはじめて読書が価値あるものとなるのである。

 すなわち、熟慮を重ねる暇も作らず、多読に耽るのは無意味なのである。

 いや、寧ろ、有害と言える。

 なぜなら、

”悪書は、読者の金と時間と注意力を奪い取るのである”(p.132)

 著者曰く、「良書の数は、一世紀の間にヨーロッパで1ダース現れるか、現れないか」らしい。

 とすれば、多読は必然的に悪書を読むことになる

 したがって、多読は害なのだ。

 ここまでで読み方については何となくわかってきた。

 次なる問題は「良書とは何か」であろう。

 本書にはこのような一文がある。

”比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品だけを熟読すべきである。彼らの作品の特徴を、とやかく論ずる必要はない。良書とだけ言えば、だれにでも通ずる作品である。”(p.134)
 確かに言いたいことは十分にわかる。

 良書に対して詳細な定義付けをすることは、余計な混乱を招くことになるだろう。

 天才の作品とだけしておくのが最適なのかもしれない。

 また、引用の引用になるが、

”幸い私は早く青年時代に、A・W・シュレーゲルの美しい警句に行きあたり、以来それを導きの星としている。『努めて古人を読むべし。真に古人の名に値する古人を読むべし。今人の古人を語る言葉、さらに意味なし。』”(p.135)

 書物の世界にも淘汰が存在する。

 長い時間を掛けて、悪書は消え、良書だけが生き残るのだ。

 よって、古くからある書物を選べば、良書にあたる可能性が高いと言える。

 今回紹介したショウペンハウエルのこの本もそんな一冊だろう。

 読み方について、ざっとまとめると以下のようになる。

・読書は、良書を繰り返し読む
・良書とは天才的古人の作品である

 この他にも、読書をせず、思索する時間も重要であると著者は述べる。



 まだまだ読み切れていない部分が多々あるが、ひとまず現段階での考察は以上としよう。

読書について 他二篇 (岩波文庫)

ショウペンハウエル 岩波書店 1983-07
売り上げランキング : 7746
by ヨメレバ
PR