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【9冊目】それは太陽のせいだ/教養と理解力



 自分を成長させるには、ある程度自分に負荷の掛かる課題に挑むのがよい。

 簡単過ぎる課題も、難し過ぎる課題も効果が薄い。

 自身の120%の能力でようやくクリアできる程度のものが、成長を促すのである。

 読書力に関して言えば、上記の課題を「本」に置き換えると良いだろう。

 今回紹介するカミュ「異邦人」、これは間違いなく「難し過ぎる課題」であった。

 

 まず、語り口が難しい

 以前の私なら最初の数ページで挫折していたに違いない。

 しかし、この本を読むに至るまでに、芥川龍之介や太宰治、ヘミングウェイを経ていたため、なんとか読み進められた。

 多少、真意の不明確な文章があっても、最後まで読み進めれば、その意味がわかったり、わかならくとも物語全体を楽しむことができるということをそれらから学んでいたからである。

 そんなわけで、努力し読み切った。

 そして、大まかなストーリーは理解できた。

 だが、本書の核心部分が全く理解できていないのではないか。私はそんな不安を読後に抱えることになった。

 この本は、陪審員制度の欠陥を訴えるものではないし、「善意も見方を変えれば悪意」といった単純なテーマに落ち着くものでもない。

 そう思わずにいられない理由は、やはり、最後の場面で見せる主人公ムルソーの叫びやそれ以降の彼の思案によるところが大きい。

 本書のその辺り(第二部後半)から、内容が急に哲学的になり、難解になるのだ。

 おまけに、巻末に掲載されている「解説」までもが難解で、「解説の解説」が欲しくなるほどである。

 特にキーワードとなっている「実存主義」、まず、この言葉の意味がわからない

 ためしにWikipediaを参照してみるも、チンプンカンプンである。

 しかし、興味深いのは、Wikiの実存主義のページにヘミングウェイや芥川龍之介の名前が載っていたことである。どいうい関係性があるのかはイマイチわからないが・・・

 さらに同ページの「関係する著名人」にはショーペンハウアーやドストエフスキーが載せられている。

 実は、書評のため、ショーペンハウアーの「読書について」、ドストエフスキーの「罪と罰」を既に用意しており、いつでも読める状態となっている。

 「実存主義」の何たるかを知るためには、実存主義そのものを学ぶことも手ではあるが、その思想をもった人物の著書を読むことで理解を深めることができる可能性もある。

 勿論、実存主義がわからぬせいで物語の核心が掴めなかった「異邦人」ように、上記の2冊もピンと来ないまま終わる場合も考えられる。

 しかしながら、「理解できないかもしれないから、読まないでおこう」というのはかなりネガティブな行為だし、理解できなかったところで損をすることは何も無い。

 強いて言えば、読む時間と購入費くらいだ。

 だが、これも己の教養と理解力を測るためなら安いものである。

 今回読んだ「異邦人」にも同じことが言える。

 「実存主義」という今まで私の生活に一切関与しなかったキーワードを投げ込んでくれたのである。

 「異邦人」を読むことに対し、私の教養と理解力が十分でないことがわかった。これだけで、価値のある本であったと思う。

 というわけで、難しさの2つ目のポイントをまとまると、「テーマの哲学的難解さ」である。


 このように、しっかりと内容を把握できていない私が感想を述べる資格があるのか、甚だ疑問ではあるが、本書の「心に響いた一文」を紹介しよう。


 ”私は、早口にすこし言葉をもつれさせながら、そして、自分の滑稽さを承知しつつ、それは太陽のせいだ、といった。”(p.110)


 死刑宣告をされたムルソーが、犯行に及んだ動機を説明した場面である。

 ムルソーは嘘が言えない。そのために、「自分の滑稽さを承知しつつ、それは太陽のせいだ、といった」のである。

 この言葉は死刑を間逃れようとしたムルソーの「救いを求めた言葉」であり、同時に、周囲に人間に彼への理解を諦めさせる「死を決定づけた言葉」でもある。

 読み返す程に悲しみの募る場面、セリフのように思う。

 だが、真にこの言葉を理解すためにも、哲学(実存主義)に関する更なる勉学が必要だろう。

 まだまだ学ぶことは多い。

 いや、まだ学び始めたばかりだ、と言った方が適切かもしれない。

 いつか「異邦人」を読み直し、なるほどなぁ、と言ってみせよう。

異邦人 (新潮文庫)

カミュ 新潮社 1963-07-02
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【4冊目】でもそんなの人間じゃない。キノコだ!



 近頃は、大人になりたくない子供が増えているらしい。ここで言う大人とはきっと「つまらない大人」「忙しい大人」「頭の固い大人」、つまり、どうしても憧れられない、そんな大人のことだろう。そんなものその大人自身、なりたくなかっただろうし、ひょっとすると、本人はそんな大人になってしまっていることに気が付いてすらいないかもしれない。

 恐ろしい話だが、「つまらない大人」には、なりたく無くてもなってしまうのだ。

 今回紹介するサン=テグジュペリ「星の王子さま」には、そんな大人たちが何人も登場する。

 作者は最初に、

 
”この本を、こうしてひとりのおとなにささげたことを、子どものみなさんは許してほしい。”(p.6)

としている。この物語が作者の親友レオン・ヴェルトに捧げたものであることを、子供達に断っているの一文なのだが、ここから「星の王子さま」が子供を対象とした作品であることも伺える。

 では、サン=テグジュペリはこの物語を通して子供たちに何を伝えたかったのだろうか。

 それは「子供のときの感性を大切にしなさい」ということであるように思う。言い換えれば、「つまらない大人にはなるなよ」ということだ。

 しかし、子供に対して「子供のとき」というものが如何程に大切かを説明するのは至難の業である。多くの場合、大人になり手遅れになってしまってから、ようやくその大切さに気づくのだ。人間は数年、数十年前を振り返り評価できても、昨日に対して同じことができない。

 この「子供のときの感性を大切にしなさい」というメッセージを子供達にわかりやすく伝えるため、作者は様々な登場人物を用意している。メインとなるのは、子供の感性を持つ「王子さま」、子供と大人の狭間にいる「僕」、そして、つまらない「おとな」達である。その他、どれも魅力的なキャラクタばかりである。

 物語の前半で、王子さまは色々な星を旅し、大人達に出会う。大人達は非常に滑稽に描写されている。大人がどれほどつまらない生き物であるか、子供達にも十分伝わるだろう。

 そして、そんなつまらない大人と同じようなことを言う「僕」に対し、王子さまが言った

”でもそんなの人間じゃない。キノコだ!”(p.38)

これが、今回、私の心に響いた言葉である。

 子供の頃の感性、つまり、自由な感性を失った大人はもはや「人間じゃない」のである。極端に言えば、権力や名声、数字に縛られた大人、ルーチンワークに身を任せ考えることをやめた大人には「人間性」は無いのだ。

 では、そんな人間性を失った大人は何者なのか。

 そう、キノコなのだ。

 ここで「なぜキノコなのか?」「キノコが象徴するものは?」と考えてみたくなる。が、しかし、それこそが不自由な大人の感性の表れかもしれない。キノコであることに深い意味を求めてはいけない。王子さまは、つまらない大人をキノコだと思った、ただそれだけなのだ。「人間じゃない=キノコ」、この間に途中式は存在しない。大人にはわかりにくいが、子供にはわかりやすい。

 このセリフのあと、「僕」は王子さまの大切さ、尊さに気付き、ぎゅっと抱きしめる。「王子さま=子供の頃の感性」とも考えられる。しかし、残念ながら、これは大人の考え方である。そして、大人になりかけている「僕」も同じ考えを持っていたかもしれない。子供の感性を大切にしたく思い、それを抱きしめたのだろう。

 王子さまと「僕」の行動や言動を「子供の感性」と「大人の考え方」とで対比して読むのも面白いかもしれない。まぁ、つまらない大人のする行為にあたるのだろうが。

 物語の最後で王子さまは消え、「僕」は大人になってしまう。そして、読者(恐らくここでは大人も含んでいる)に対し「僕」は王子さまを見つけたら知らせてくれ、とお願いする。これも作者からの重要なメッセージのうちのひとつである。



 自分は今、つまらない大人になっていないか。自由な感性を失っていないか。人間性を持っているのか。読後にはそんな疑問が浮かび上がる。

 下手な啓発書よりも、考えさせられる力をもった物語であるように思う。

 子供の頃に読んだことがある方にも、是非、もう一度読んでもらいたい。そして、考えてほしい。つまらない大人になっていないだろうか。

【3冊目】頭よ、頼むから最後までしっかりがんばってくれ

前回の記事では、「書評のための本の選び方」と称し、現在の私の本の選択の仕方を紹介した。

 しかし、実は、紹介というよりも、自分自身の本の選び方について一度整理しておきたかった、という理由ためだったのが本当のところである。頭の中でぼんやり「こうだろうな」と考えを巡らせるのと、それを文章にするのとでは、たとえ自分の頭の中の思考であっても、その理解度には雲泥の差が生じると思うのだ。

 同様に、本を読み終わったあとの、頭の中にある様々な思いを「書評」という形で文章化することも、重要な行為だと言える。文章化することで本の理解度、自分が持った感想に対する理解度が増すはずである。


 では、本の紹介に移ろう。

 今回紹介する本はヘミングウェイ「老人と海」である。

 文学的教養が無いに等しい私が、突然このような本を選んだのは不自然である。つまり、前回紹介した「本の紹介パンフレット」から文学作品と思われるものから無作為に選んだ一冊というわけだ。

 そんな「私が読んで面白さがわかるのか」と不安を抱きながら読み進めた本書において、心に響いてきた言葉が以下であった。


”手よ、どんどん綱を引いてくれ。脚よ、しゃんとしろ。頭よ、頼むから最後までしっかりがんばってくれ、いいか。(p.83)”


 主人公の老漁夫サンチャゴが、巨大カジキマグロとの死闘を繰り広げ、そして、最後の一撃を放とうする。そんな場面でのセリフである。

 老人と海は「ハードボイルド小説」に類する作品である。そのハードボイルドを凝縮したようなこのセリフに、この老人の勇ましさを感じずにはいられなかった。

 作中で何度も怪我をする老人であるが、その度に「ちゃんとしてくれ」と、自分の体から怪我をした部分を切り離し、あたかも別個の生命のように語りかけるのである。それは、痛みを意識から取り除くためであり、また、孤独に耐えるためなのであろう。そして、最終的に「ぼうっとしてきた」頭すら切り離し、「頼むから最後までしっかりがんばってくれ」と話しかけるのである。

 サンチャゴは巨大カジキマグロとの死闘中や死闘後、港へ帰る途中に様々な漁具を失う。しかし、彼はそのことに対してほとんど後悔も不安も感じていないのだ。どんな窮地に立たされても「いや、手はあるぞ」と戦うための策を練るのである。

 自身から身体や頭を切り離すことで、それらを道具と見なす。そして、その道具を失うことに臆すること無く、強大な敵へ立ち向かう。つまり、身を捨ててでも敵に勝とうというのだ。凄まじい緊張感と迫力を読んでいて感じた。

 老人と海、ストーリー自体は至ってシンプルだが、そこがまたハードボイルドさを際立たせているのかもしれない。私でも十分に楽しめる名作であった。

 実生活でここまでストイックになれる場面は少ないかもしれない。でも、巨大カジキマグロのような強大な敵、大きな困難に立ち向かわなくてはならないこともあるだろう。そんなとき、主人公サンチャゴの勇姿が、ハードボイルドに淡々と壁を乗り越えるための力をくれるかもしれない。